あの人のようになりたい。誰か憧れの人がいるとその人に近づこうと頑張れる力が出るのもです。
杉原千畝って知っていますか?
とても温かい心を持った人です。
今日は私の大好きな杉原千畝をご紹介します。
第二次世界大戦の時のお話です。
杉原千畝はリトアニアの日本の領事館をしていました。
ある朝めが覚めると、たくさんの人が領事館に集まっていました。
当時は、ナチスドイツが、ユダヤ人を迫害している時でした。
ユーロッパ中にナチスドイツの力が広がり、リトアニアにポーランドから逃げてきたユダヤ人が逃げ場がなくなってしまい、日本を通り外国へ逃れるために日本の領事館へ入国を許可するビザをもらいに集まったのです。
ポーランドでは、ユダヤ人は大人でも、子どもでも、みんな捕まえて、強制収容所へ連れて行かれるのです。
運よく北へ逃れた人が、ナチスのまだ勢力が及んでいないリトアニの領事館へきたのです。
その頃日本は、ドイツと、イタリア、と同盟を結ぼうとしていました。
ですから、日本を代表とする立場の千畝は日本の政府を代表する立場です。
外には何百人ものユダヤ人が集まっています。ユダヤ人たちの生き残る道は、ソ連から日本へ渡って、南米へ逃れる道しかありませんでした。
行き先の入国許可証をもらっていない人には、日本のビザをだしてはいけないと言うのが日本の答えでした。
命令に背くと、悪くすれば職を失います。
何日か悩んだ末、結論を出します。
「僕は、外務省の命令に背いても、領事館の権限でビザを出すことにする。」
ソ連の領事館へ行き、ソ連の国内を通って日本へ行けるように許可をとり、
ユダヤ人へ命のビザを発行することになったのです。
毎日ビザの発行をしますが当時は領事本人の書いたものでないと認められないので、一人では書いても書いても終わりません。
ソ連政府から、領事館からの退去命令が幾度となく出ました、しかしそれを無視してたくさんの逃げてきたユダヤの人たちへビザを発行したのです。
とうとう日本へ帰らなくてはいけなくなり、列車に乗り込んでも発車までの短い時間を使って、許可証を書いて渡しました。

ユダヤの人たちが、ソ連に逃れウラジオストックから日本へ渡る時に
杉原千畝の2つ下の根井三郎と言う人が日本渡航への手を貸します。
(この二人は、ハルビン学院というロシア語を学ぶ専門学校学生でした。同じ学校に通っていました。)
日本の政府からの伝令は、行き先の決まっていることを確認してから入国を許可することと言うものでした。
しかし、根井三郎もユダヤ人に同情し、日本の政府と交渉をします。
最終的には、漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給してユダヤの人々に手を貸しました。
この二人の連携により、たくさんのユダヤ人が日本から外国へ逃れることができました。
日本に帰った千畝は外務省を辞めます。
ビザをもらって無事にアメリカに渡ったユダヤ人は、戦後もずっと千畝を探し続けたそうです。
昭和60年千畝は、イスラエル政府から 「諸国民の中の正義の人賞」をもらいます。
授賞式には、体調の悪い千畝の代わりに、奥さんと子供さんが出席をしました。
その授賞式は、イスラエルのみならず、ドイツ、アメリカ、フランスの外国の報道陣もいました。
「私は、外交官としては、外務省に背いて、間違ったことをしたのかもしれない。しかし、私を頼りにしている何千もの人を、見殺しにすることはできなかった。そして、それは正しい行為だったんだね、、。」
千畝が奥さんへ話した思いです。
大人になってからこの話を知りました。
ユダヤ人の迫害のことは知っていました。日本の勇気のある人がこんなにたくさんの人の命を救ったことに驚きました。
また、生き延びた人も、千畝のことを探してくれていたこと、千畝も逃げた人が無事でいるかどうか心配をしていたことを知り、心が温かくなりました。
千畝は、リトアニアから出国する時に列車の発車間際までビザを書いていましたが、ビザをかけなかった人もいたようです。しかし。根井三郎がビザがなかった人にも渡航に手を貸していたようです。
当時のユダ人の収容所、アウシュビッツの話は恐ろしく本を読んだあと、クライ気持ちがしばらく続きました。
杉原千畝の本を読んだ時、暗く重い心に光がさしました。どちらも人間のしていることです。
この世は、天国と地獄が混在しています。地獄の使いになる人にも理由があります。
人の弱さを身にしみて感じている年齢です。、大きな力の前ではどうしようもなく無力な自分を幾度となく今までの人生で感じでいます。
できれば、温かさを感じながら、伝えながら生きていきたいと願います。